はじめに──「小さな罪をかかえた男」

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林眞須美先生を私がはじめて見たのは1998年の夏でした。先生はテレビに映っていました。

先生はメディアの記者たちに向けてホースで水をまいていました。笑いながらまいていました。不気味なおばさんだと私は思いました。

そのときのテレビの形や大きさ、見ていたときの状況は覚えていません。朝の出勤時や帰宅後のニュースで見たのだと思います。


そのころ私は、長野県の地方紙で記者をしていました。96年10月の入社ですから、ホース水まき映像のときは入社2年弱でした。

警察担当を上がって、松本の検察や裁判所を担当しつつ、地域面をうめる暇ネタも書いていました。

いそがしく取材に駆けまわる反面、記事で人の名前や内容を間違えて始末書も書きました。交通事故も何回かやらかしました。記者仕事にやりがいを感じつつも、向いていないかもと思い始めていたと思います。


林眞須美先生の映像やカレー事件を特に注目して見たことはありません。もちろん、もしかして冤罪かもと思ったこともありません。

不気味なおばさん。悪そうなおばさん。

疲れた身体をやすめながら、そんなイメージだけを画面にむけてフィードバックしていました。


和歌山カレー事件が他の冤罪事件と決定的にちがうのは、事件発生時からの「知名度」でしょう。林眞須美先生は全国的な世論の支持をうけて犯人に仕立てあげられました。

時代もあったでしょうか。バブル崩壊、就職氷河期、大地震、新興宗教、金融機関の破綻。

いまから思えば、日本経済はそのさき長くつづく転落のとば口にいました。その意味で、1981年に発生し二審と最高裁で無罪となったロス疑惑とも時代状況がちがうのでしょう。


カレー事件の確定一審判決には、検察と裁判所の苦心のあとがいくつも見つかります。

2002確定一審の検察官と裁判官は、圧倒的な世論を背景に、隠蔽、誤魔化し、こじつけを施すことでやっと死刑を言い渡すことができたようです。

この証拠なら、有罪無罪どっちでも理屈は通ります。裁判官はあえて有罪死刑を選択したのです。


私はその後まる4年で退職し、小説家をめざして挫折し、脱ダム運動や選挙運動にのめり込み、子育てをし、反PTA運動をやり、学校で読み聞かせを154回やりました。

特に子育ては片手間ではできません。夜中に飛びおきてミルクを飲ませ、かぼちゃと大根を煮込んでフォークで潰し、公園で枯れ葉の吹雪を演出してやりながら、林眞須美先生のことを思い出すことはありませんでした。


1998年の夏、私は過ちをおかしました。問われることのない小さな罪です。なぜ思い出したのかはわかりません。

さしでがましいようで大変に恐縮ですが、あなたも同じ罪を背負っています。

これは私の、そして私たち自身の解放の物語なのだと思います。

林眞須美先生に再審を。

(平井草)

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